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2024年 8月2日 一番大切なもの

昨日は偶然ジェンダーについて触れるような記事を書いたが、早速オリンピックでボクシングの試合に性自認による大問題が起こってしまった。要するに自分は女性だと主張する男性選手と女性選手の試合が行われてしまったのだ。結果はあまりにも悲惨な状況だったYouTubeにはアルジェリア選手の試合が流れていたが、パンチの破壊力には圧倒的な違いがり試合全体に悲壮感が漂っていた。もう一方の試合はさらに悲惨で、対戦した女性選手は試合後46秒で命の危険を感じ自らリングを降りたという。

しかしながら国の期待を背負う試合で自らの命を守った行動は、この問題に一石を投じることになっただろう、このまま彼女の勇気を無駄にはしたくない。とはいえこれがオリンピックだけの問題かといえばそうでは無いだろう、何故なら彼らは国が発行したパスポートにより性別が証明されているからだ。しかもこのような問題は前年にあったボクシングの世界選手権ですでに起こっており、これを主催した国際ボクシング協会は彼らの参加を拒否している。では何故IBAがこのような措置に及んだかといえば選手の安全を守ることと競技の公平性を保つことだろう。つまり国際競技はすべてこの考えに基づき運営が行われてきたはずで、選手の安全といえばドーピングなど選手の健康に被害を及ぼしかねない行為はIOCでも極めて厳しい措置に及んでいるはずなのだ。ところが、この件に関しIOC会長は「すべての人は差別なくスポーツをする権利をもっている」とのコメントを発表した。

さてこの発言を聞かれた方はどの様に感じられただろうか、スポーツ競技において選手の安全性より性別による差別があってはならないという、私にはこの発言に価値観を共有することは不可能なほどの溝を感じる。これでは、様々な方がすでに発言しておられるように、こんなことが優先されれば体重による階級の設定すら根拠を持たないことになる。つまり競技としての公平性より性差別は優先されるのかという問題になる。そもそも体重別というのは性差に比べれば、かなり影響力の低いグループ分けになるだろう。ところが選手はこの階級別が勝敗に大きく影響することから極めて過酷な減量を行っている。そこまでアスリートは耐えて試合に臨んでいるのだ。

ところが、選手が実際のリングで感じたものは、まるで未知の生き物と対戦する思いであっただろう。そのためこれまで積み上げてきた努力も、周囲からの期待も命には代えがたいとの思いになったのではないだろうか。

それではIOCのいう差別とはどれほどの根拠があるものなのか、残念ながらそんなものは、初めからこの世に存在していない。というのも個人が自分の性を受け入れられないというのは、自分の存在自体を受け入れない行為に似ている。例えば実際に多重人格という人の存在を社会はどの様に受け止めるのか、極端な例になるが、そのような状況にある人が、重罪を犯したとしても、法律的には罪に問われることはない。それは社会がその人の状態を客観的に判断するためだろう。つまり自認により性が決定されるとすれば、過去に起こったこのような裁判も見直す必要が出てこないだろうか、なんでも差別でくくる風潮はこのような自由な言論さえ奪うことに繋がる。