令和 あくび指南
2024年 2月3日 冤罪
法治国家において私が最もやりきれなく思うのは冤罪だ。全く普通の生活をしていた人が身に覚えのない罪で罰を負わせられる。最もひどいのは死刑判決を受けながら何十年も裁判が続いた結果冤罪が確定した事件は数えきれない。
因みに昔グリーンマイルというトムハンクスが主演した映画があった。冤罪をテーマにした映画は沢山あるが、これをテーマにして心温まる思いになるのは、この映画っが初めてだった。ほとんどの場合、映画の最後はやり切れない思いに襲われる。
とはいえ裁判であれば訴えた相手はハッキリしているので、損害賠償を請求することもできるが、そうは言っても、冤罪が確定しても、そのことで回復できるのはお金だけだ、刑が執行され恐怖に怯えながら過ぎ去った時間は誰にも戻すことが出来ない。世の中にこれほどの地獄はあるだろうか。
ところが世の中に蔓延る風評被害はもっとたちが悪い、なにせ被害を訴えようにも相手が誰なのかもわからない。こういう話題で私がすぐ頭に思い浮かべるのは、1994年にあった、松本サリン事件のことだ。この時風評被害にあわれたのは、河野義行氏で彼は事件の第一通報者として協力したつもりが、それが仇となった。というのも通報後彼は、自分も家族も毒ガス被害にあいながら、同時に自分に掛かる容疑を晴らさなければならないのだ。この時、警察が捜査をすることは当然のことだが、これを追いかけるマスコミ報道があまりにもひどすぎた。
TVを見ている側が気持ちが悪くなるほどその取材は執拗で、苛烈だった。河野氏にはまるで人権など存在しないかのような扱いだったのだ。なるほど彼が凶悪なサリン事件の犯人であれば人権など無視して構わないという思いなのだろうが。この時、冤罪の可能性についてマスコミや視聴者に警鐘を鳴らした者は誰もいなかったのだ。それからかなりの時間が経過しやっと疑いが晴れ、数年たってやっと世間にこの時の様子がTVで流された。それは当事視聴者がTVで感じていたことよりも、遥かに悲惨な状況だった。冤罪被害にあった彼は毒ガスの後遺症で伏せる妻を看病しながら、警察の厳しい尋問に答え、そのうえ冗長するマスコミの取材にも丁寧に答えていたのだ。このようなことがあっっても冤罪を勝ち取った彼の弁は「人間は誰でも間違いを犯す、だから許します」と仰っていたのだ。現在も彼はメディアリテラシーについての活動をされているが、このようなことは二度とあってはならないという思いなのではないだろうか。
確かに松本サリン事件はまさに凶悪犯罪に違いないが、だからと言って誰でも巻き添えにして許されるものではないだろう。私がここでやりきれない思いになるのは、あれほど事件を煽ったマスコミや私も含めTVを見続けていた人間は、なんら罪にも問われず悪びれる様子もないことだ。これほど人を気付つけてしまうことが、正義を振りかざし、いまだにその責任すら問われないことに恐怖を覚える。
あれからすでに30年が経ち世の中はどう変わっただろうか、私が目にする現実はさらに事態が悪化しているように見える。というのも昨年末からいきなり問題になった、裏金問題を見てみると、閣僚が起訴すらされていないうちに、4人も同時に更迭されてしまった。それでは、はたしてほかの派閥や他の政党の政治資金収支報告書は全く不備がなかったのだろうか、そればかりではないそもそも政治資金パーティーは国会議員全体でどれほど活用され何に使われているのか、またそのような視点でこの問題は議論されているのだろうか。これが立法府でのことだが、巷の様子はさらにひどいことになっている。
私はこれまで何度も前置きしてきたが、法律に反することは厳正に裁かれるべきだと思っている。それに対し手加減や目こぼしを促しているつもりはない。要するに法律で認められないリンチが横行する社会は正常とは言えないと言っているのだ。これが機能しない国家とはどのようなものか、それは国民の気分次第で刑が執行されてしまう、きわめて恐ろしい状態の国家だ。このようなことは、これまで人類が歴史に刻んだ、もっとも避けなければならない事態なのである。
さて私が最も危惧する現代のリンチとは、これがインターネットによって誰でも意識せずにできるようになってしまったことだ。そういう私もここでは、世間に対しかなり批判がましいことを言っているので、あまり大きなことは言えないが、ここに来られる人はよほど気の合う人だとの思いから勝手なことを書いている。
ところで、最近のインスタ、Xなどは発信すると、すぐに反応が返ってくる。何度も例に出して申し訳ないが、先日亡くなった漫画家の事件もこのようなSNSでの評価が事件の切っ掛けになったと聞いている。というのも正直、私はあまり存じ上げていなかったが、家族によるとあの番組はとても楽しみにしていたそうだ。きっと彼女には目の前の反応がすべてだと思い込んでしまったのではないだろうか。その結果、自分の評価を矮小化してしまい、彼女はそのあまりにも残酷な事実に、絶望を感じたに違いない。
さてここで、このつぶやきに反応していた人は、彼女をここまで追い込んでいるという自覚があったのだろうか、恐らくその結果については何ら考えていなかったのではないかと思う。結局自分の責任など考えもしない人たちが、結果的にこのことで自分が尊敬する人の命を奪ってしまったということなのではないのか。
さてこのように、あってはならないことを防ぐためには、私的な出来事に対し、個人が軽々にジャッジしてしまうのは、大変危険なことだと言える。これは被害者にタレコミをするなと言っているのではない。最初に被害を届けなければならなのは警察である、それから起訴して裁判の判決となる。確かに警察に届けても何ら報酬はもらえないかもしれないが、これによって人の命まで奪うことにはならないだろう。
とはいえ、このようなやり取りは人を傷つけたり、そればかりか反対に人から恨みを買ったりすることになる、これでは社会の空気は淀むばかりだ。このような悲劇を防ぐには、普段から危険なところには近づかない、怪しい人にはついていかないという自分を護ることに心がけた方が良い。
私は誰がいいとか悪いとかよりも「人は誰でも間違いを犯します、だから私は許します」と言った河野義行さんの言葉に希望を感じている。