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令和 あくび指南

2024年7月24日gallery,ようこそ

2024年 2月16日 自己愛と仏の世界

私は究極の自己愛が仏の世界だと思っている。だからと言って自分に気持ちいいことをするだけが、自己愛だとは限らない。私が思う自己愛とは自分の目線を信じることだ。最近SNSなどの心無い投稿から自分の命を絶ってしまうという事件が頻発している。それは大人から子供の世界まで幅広い。では意地の悪い投稿をする人間を懲らしめれば、この問題は解決できるのかといえばそれも難しいだろう。

一番簡単な方法はそんなSNSは、やめてしまうことなのだが、私も含め投稿というのは自分の評価が間接的ではあるにせよ、すぐに教えてくれる。結局SNSは自分の承認欲求を手軽に満たしてくれる便利なツールであることは認めざるを得ない。とはいえこれを自分の評価のすべてと思い込んでしまうことが、とんでもない悲劇を引き起こしてしまう。

ではこのようなジレンマからどのように離れるか、それは真実を知ることだろう。つまり自己とは何かを見つめていくと、自己というものは、とてもあやふやなものだと思えてくる。それは常に変化することが決まっていて、まさにその本質といえる。

我々の人生とは、このような変化に感情を加えることで完成する経験というものに他ならない。ではこの感情に選択の自由があるとすればどうだろうか、この感情について喜びの経験とするか悲しみの経験とするか、できれば私は同じ感情なら喜びの経験を選択した方が楽しいと思っているので、最後は喜びに終わる落ちを考えている。ところで同じ経験をすればそこに起こる感情は同じ動きをするものと思ってしまう。

例えば嫌なことされても笑っていられるのかといえば、当然そうでは無い、そんなことをされれば私は直ちに我を忘れて激怒する。とはいえ、その怒りを恨みに変えてしまうと、相手を悲しみに陥れる結果になってしまうのではないだろうか。そうなればその経験は悲しみの経験として残ってしまう。

では怒りを喜びに変える選択はどのようにすれば可能だろうか、たとえ一時的には、怒りまくって相手を罵っていたとしても、いつかは共に喜び合えることを信じて、その方向に思いを巡らせることだ。なぜ私がそのように思うのかといえば人間の本質は貴方も私もない、ただ一つの無意識を共有している存在だと思えるからだ。そうだとすれば自分の生きている内は無理でも、自分の子孫はきっと許し合っているかもしれないと想像を巡らせ、そんな未来を信じることだ。

つまり自分を愛することは、隣人を愛することに他ならない。私はこれが仏の世界だと思っている

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Posted by makotoazuma