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独立自尊 奥の細道

2024年2月2日gallery,ようこそ,絵本墨絵 俳句

奥の細道 序文について

まったく計画性のない投稿で面食らう方も多いと思いますが、独立自尊の所以です。ところで芭蕉の句を味わうためにはこの序文も大切なところだと投稿の後気づきました。実はこの投稿を終えた後芭蕉のプロフィールを覗いてみたのですが、実はそこで大変興味深い事実を知りました。

なんと芭蕉は禅僧だったということです。しかも悟りを得たほどの方でした。仏頂禅師という臨済宗の老師について学ばれたそうですが悟りを得たことを認められたということなのでしょう、

なるほどものの見方が尋常ではないのはこのような理由によるのかもしれません。そこでそのような目線で奥の細道の序文を見返してみました。

最初の月日はの始まり方もいきなり時間を主語に文章が始まります。つまり、人生の捉え方ではなく時間そのものに対しての捉え方です。ここで時間は過ぎ去る存在だと言っています。当たり前のことのように思いますが、さらにまたこれから訪れる未来も旅人という比喩を使って。いずれ過ぎ去る留まることがない存在としています。つまり時間というものは未来も過去も過ぎ去ってはおこる、実体のない存在だと真っ先に伝えています。

ところで問題は次の文章、「舟の上に生涯を浮かべ馬の口をとらへて老いを迎ふる者は日々旅にして旅を栖とす」この文章は芭蕉が禅僧の目線で奥の細道を完成させた証拠ではないかと思っています。皆さんご存じの通り仏教を舟に例えて大乗、小乗と表現することが有ります。つまり舟の上に生涯を浮かべとは仏道の世界に暮らす人、馬の口をとらへてとは馬子のことではなく仏の世界に引導を渡す立場の人間を例えているのではないでしょうか。このように芭蕉の持つ視点とは悟りへの確信と高僧へのオマージュを重ね合わせているように感じます。