今日は好日Vol.2
2023年 4月10日 マニアの行着いた1枚
昨日注文していたCDが届いた。何故購入したのかといえば何か不思議なご縁を感じて衝動的にサムネイルを押してしまった。このアルバムは平原まことさんのアルバムで日本が誇る名プレイヤーとある。以前私はお嬢さんの平原綾香さんが函館でライブを行った記事を書いたのだが、そこでご縁が繋がったのかもしれない。とはいえCDを1枚購入しました、ということなので何をそんなに大袈裟にしているのかと思われるかもしれない。驚いたのはCDのクオリティーの高さで、これは私が探し求めていた1枚と言っていい出会いとなった。
私がオーディオ好きということは、これまでたびたびカミングアウトしてきた。とはいえなぜかこの趣味は、胸を張って公言できないところがこの世界の闇深いところだ。私が出会ったオーディオ好きの家族は、ほとんどの場合この趣味をあまりよく思っていないように感じられたからだ。
なぜならそこにつぎ込まれる資金が、家計という括りから考えると常軌を逸していると思われるためだ。あんなもののためにという苦々しい思いが、この話題になると周りの家族から感じられる。当人としては博打やブランド物にせっせとお金をつぎ込むことよりは、よほど文化的で社会に貢献していると思っているのだが、とはいえそうは思いながらも、やはり何かしら世間の向ける冷たい視線を無視できないでいるのだ。
そんな肩身の狭い思いをしながらも、この趣味は資金だけ注げば満足が得られるのかといえば、全くそうではないところがこの趣味のさらに恐ろしいところだ。この趣味を成功させるためには理想とバランスそして世間の冷たい視線をものともしない忍耐と情熱が必要になるからだ。その結果、作業しながらのBGMという音楽の楽しみ方から、マニアの常識はどんどんかけ離れてしまう、実際にこの世界を極める人は飲食禁止のJAZZ喫茶まで造ってしまうくらいだ。
さてそんな人たちが追い求める理想とは音をどこまでリアルに感じることが出来るかと、理想の音楽に永遠に包まれていたいという思いだ。
一見こんなことは造作もないことのようだが、実際にやってみるとそう簡単ではない。極端な例えをすれば、このことは顕微鏡を覗きながら散歩に出かけるようなものなのだ。私も気が付けばこんなことを30年以上繰り返してしまったことになる。結局リアルな音を再現できたとしても、その音を繰り返し何時間も聴き続けることが出来るかといえば、そうではなかった。初めのうち、どれほど耳障りのいい音であっても聞いているうちに不思議と疲れがたまってくる。というのも通常聞こえないほどのノイズが聞こえている可能性があるからだ。こうならないためには結局そこそこの再現力で聞くのが最も合理的で、そのため最近の私はサブシステムでの音楽鑑賞が主流になっていた。
昨日も購入したCDをサブシステムで早速聞いてみた、印象は終始、やさしさの溢れる演奏だった。ソプラノ、アルト両方のSAXを交互に演奏されているそうだが、とても繊細な音だった。私は気をよくして、メインのシステムのほうでも聞いてみることにした。どんな表情が隠れているのか楽しみになったからだ。
ところが聞き始めて間もなく、私は冷や汗をかいた、スピーカーから聞こえてきた音が、びりびり歪んでいたからだ。しかもその音はスピーカーの上にちょこんと乗せてあるスーパーツイーターから聞こえてきた。これまでそのツィーターから音が聞こえたことは一度もなかった、もともと人間の耳には聞こえないはずの音域を再生するための装置なので、そこから音が聞こえることはあり得ない話なのだ。原因を考えると憂鬱になるが、真空管の劣化でないことを祈りながら、仕方なく素手でツィーターを抑えたりしているうちに振動は収まってきた。今思えばアンプの暖機運転もせず急に音を出すという、雑な扱いにシステムが抗議したのかもしれない。
それにしてもこのCDにはどんな音が入っているのか、振動が収まったシステムからは、ベールが剥がされたようにクリアーな音が聞こえてきた、しかもその音はどれだけ聞いても飽きるとがなかった。まさに私がオーディオに求めてきた音の理想がそこにあった。この録音はきっとマニアにしか作り出せない音だと思った。30年もかけてやっと理想に巡り合えるとは、この世界は最後まであきらめてはいけないということなのか。夕暮れに聞く優しい音楽は異世界にある喜びを伝えてくれるようだ。