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独立自尊 奥の細道

2024年7月18日gallery,ようこそ,絵本墨絵 俳句

むざんやな甲の下のきりぎりす

この句については奥の細道に詳しく説明がされている、ここで詠まれるキリギリスとは斎藤実盛の思いだ。確かに無念ではあるが武士の最後を表現した美談として、後世に語り継がれているところは単に無念の物語ではない。

すでに、語りつくされている処ではあるが、お付き合い頂ければ有難いと思う。

まずはこの句を詠まれた小松にある太田神社には実盛が身に着けていた甲、脛当て、錦の直垂れが木曽義仲によって奉納されている。芭蕉はこれらの遺品を目にしながら、これらに伝わるいわれを聞いて武士の世のやりきれない思いに感じ入ってしまったということだ。

木曽義仲については俱利伽羅峠の段でも少し触れているが、義仲から見ると実盛は恩人にあたる人ともいえる。

もともと斎藤実盛は武蔵の国で源義朝に仕えていたのだが、当時武蔵の国は義朝と義賢で納められていた。ところが地政学的な事情から実盛は義賢の方へ寝返ってしまう。この義賢の子が駒王丸、後の木曽義仲だ。ところがまもなく義朝の子義平に、義賢は滅ぼされてしまったのだ。

さてここまでは実盛はまだ源氏方だったのだが、平治の乱が始まると義朝、義平は親子ともども打ち取られてしまう。この時斎藤実盛は平家方に再び寝返ってしまうのだ。それからの実盛はどんどん頭角を現し武蔵の国で別当としての役目を授けられる。ちょうどいま、大河ドラマで北条時政が別当として武蔵の国にちょっかいを掛けている処だが、この相手となった畠山重忠の父、畠山重能(しげよし)が、源義賢を滅ぼした際その子である2歳の駒王丸も殺してしまうように義平から言いつけられるのだが、畠山重能はその命に背き、斎藤実盛に命じて駒王丸を木曽へ逃がしてしまうのだ。この時の恩を木曽義仲はずっと忘れずにいた。

さて平家方につき武蔵の国で別当となっていた斎藤実盛もさらに歳を重ね、木曽義仲と相まみえる時には70歳を超える歳となっていた。そのため髪はすっかり白髪となり、もはや戦場を颯爽と駆ける武士の姿ではなかった。

とはいえ源平合戦となっては、お家の一大事やむおえず、実盛も老体にムチ打ち出陣したのかもしれない。そんな老いた実盛であったが、戦場で相対する相手が老人とみて変な手心を加えないよう、あえて髪を染め遠目からは老人とは悟られないようにしていたらしい、これが武士のプライドなのだ。斎藤実盛の銅像には丸い手鏡を武具をつけて覗くポーズが取られている、そのポーズはこの時の髪を染め戦地に赴く姿を表現しているのだと思う。

さていよいよ迎えた倶利伽羅峠の戦いで、平家は無残な敗北を期してしまう。その後倶利伽羅峠から落ちのびた平家は加賀国で、立て直しを図り篠原の戦に臨むが、勢いを盛り返すことは出来なかった。次々と平家の武将が打ち取られる中そのしんがりに、たった一騎で向かったのが斎藤実盛だった。この時も相手の武将が名前を名乗ってきても実盛は自分の名前を明かすことはなかった。そして、打ち取られたその首を池で洗ったところ、黒く染められていた髪は真っ白に変わってしまった。その無残な首に樋口次郎兼光は憶えがあった。兼光はその首が斎藤実盛の首であることを義仲に告げたのであった。義仲はこのことを知って泣き崩れ実盛の身に着けていた武具を太田神社に納めたそうだ。

ところでこの小松は、勧進帳で有名な安宅の関(あがた)のある所でもある。私は当然何らかのメッセージがあるものと思っていたが、なにも感じ取ることが出来なかった。実は勧進帳の舞台となった関所はすでに紹介した鼠の関ではないかという説がある、根拠としては富樫姓がそちらで多く見かけられるそうなのだ。