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2023年 日本を護るために

2024年5月1日gallery,ようこそ

2023年 8月15日 九段の母

これは1939年、太平洋戦争の前年に流行った歌謡曲だ。私が馴染み深いのは1972年に流行ったシベリア抑留者の帰還を待つ母親をモチーフにした岸壁の母の方だ。ところが、二葉百合子氏が九段の母もカバーしていたために幼少期の私には、その違いも判らないまま記憶に残っていたのだ。とはいえ終戦記念日の今日、改めてこの話題を取り上げたのは、もちろんこの曲が靖国神社の参拝をテーマにしているからだ。

この歌の大まかなところは子供を戦争で失った母親が靖国神社を参拝し、その社の荘厳さを称賛するという今では戦争賛美と攻撃されても仕方がない内容の歌なのである。とはいえ昭和14年の日本の庶民は、この内容に何ら疑問を持つものはいなかった。

そしてこの歌の重要なところは、国のために命を捧げたものに対し、国は英霊として最大限の敬意をもって称えていたということだ。そもそもこの神社は明治天皇の勅令をもとに招魂社として日本全国に祀られたのだが、その勅令は明治元年に行われていることからも明治天皇はすでに、海外との軋轢や戊辰戦争などの犠牲に対して止むに止まれぬ思いがあったからだと思う。このことはあくまでも国家に身を捧げた英霊の鎮魂が主な目的で、靖国神社の目的は宗教行為にあるのではなく、国に奉仕したものへの国としての最大限の労いなのである。このような状況をみても今の自衛隊員の身分とは相当な乖離がある、国が万が一の犠牲に対して最大限の敬意を示そうという国と、戦争行為と刑犯罪の区別も曖昧なまま、自衛隊員を命がけの戦地に向かわせようとする処遇の差である。このような状況を放置したまま「お国のために戦ってくれ」というのは、あきれるほどの無神経とは言えないだろうか。

ところで、今の日本は政治の中心にいる要人が、靖国神社への参拝をすること自体が国際問題になるという悲しむべき環境にある。理由については様々ある、この慰霊を宗教行為だとするものもあれば、参拝は戦争賛美だというものもある。なかでも深刻なのがA級戦犯を合祀する靖国神社を政府の要人が参拝することは、戦争犯罪を蔑ろにしようとする歴史修正に及ぶ行為だというものだ。

「それは内政干渉です」と言い捨てることもできるが、そうは言っても国内ですらこれと同じ考えの人と出会うことがある。しかも天秤や桐の模様などそうとうな肩書をぶら下げている人も中にはいるのだ。とはいえこの時期にこんな非難がましいことを書けば、私もずいぶん嫌な思いを覚悟しなければならない。ではなぜそうまでして記事を書くのかといえば、それはこの記事が核廃絶や非人道的行為にブレーキをかける切っ掛けになるかもしれないという微かな期待があるからだ。

ではそもそも糾弾される戦争犯罪の犯罪とはなにか、ウェキペディアによれば刑罰法規に規定される有責な行為とある。では戦争犯罪はどのような刑罰法規によって裁かれたのか調べてみると愕然とする。WW2以前そんなものはどこにも存在していなかったのだ。世界の民法の手本とされる1804年に発布されたナポレオン法典にはすでに法規定の示されていない罪は裁かれないとある。にもかかわらず、ニュルンベルク裁判や極東軍事裁判では突然規定された平和に対する罪というもので軍の指導者など当時戦争遂行に関わったとされる要人が、それぞれの裁判で起訴され処刑されている。これがA級戦犯という犯罪人の実態である。因みに同じく多くの戦禍をもたらしたWW1では軍事裁判のようなものは行われていない。過酷ではあったが、あくまでも停戦の条件として賠償金、領土の割譲の条約が国同士で結ばれただけだ。このようなことを盾に日本は自国の慰霊行為にまで他国の干渉を受けているのだ。

しかしながら、この問題はさらに深刻な問題を抱えている、それが人道に対する罪というものだ。これは戦中の一般市民に対する殺害、絶滅的な大量殺人、奴隷化強制移動云々(※注)となっている、果たしてこれは日本軍だけが犯した罪と言い切ることが出来るのだろうか。もしこの判決が現在も有効だというのであれば、核兵器の使用や都市への爆撃は紛れもない戦争犯罪と言えるのではないか。

私はあらためて靖国神社参拝問題は参拝するかどうかということよりも、なぜ参拝が海外からこれほどの非難を浴びるのか、その理由にこそ、現在の核兵器や都市攻撃を正当化しようとする意図が見え隠れしているように感じている。

 

注:長島友美氏「戦争裁判と国家主権の関りについて」の論文を参照。

2023年 8月12日 日本文化とは何か

私が日本文化に感じるイメージは以外にも多様性と特異性だ、つまり日本文化は多様な文化の片鱗を感じさせつつも全体を眺めるとそれは唐突で異質にさえ感じてしまうことがある。では日本文化に多様な文化の片鱗が見られるのは、何故かと考えれば、それは多様な文化が日本を訪れていたということだろう。今でこそ文化の交流は飛行機やインターネットで短時間に行えるようになっているが、日本には太古から多様な人種の訪れがあったはずだ。

とはいえたいがいの国ではその文化は、パワーバランスの変化によって、どちらか一方の特徴を残し他方の文化は消えさってしまう。ところが日本ではそのような文化の転換はかなり緩やかで、結局日本のどこかにその片鱗をひっそり残しているのだ。

このように日本文化は多様な文化の集まりのように感じる一方、あまりにも特異な個性を残している。そのことを特に感じるのが音楽的嗜好で、先日あった国際民族芸術祭においても、何故ここで日本の古典芸能出演はないのか考えてみると、確かに日本の古典芸能には個性が強すぎて他国の音楽とは馴染まない雰囲気がある。

私はそのことに強く影響を及ぼしているのは日本人が持つテンポの問題ではないかと思っている。どういうことかといえば、きっと日本でライブ活動をする音楽家は一様に感じていることかもしれない。例えば演奏中観客に手拍子を要求すると、手拍子のテンポがずれてしまうことは無いだろうか、そのため演奏が観客のテンポに引きずられて収拾のつかないことになってしまう危険があるのだ。なぜテンポが狂うかといえば、その理由は民族には民族共通のテンポというものがあって、日本人のリズム感がもともとかなり異質だったというものだ。

このように考えれば、日本人は世界中の音楽に影響されながらも、自分たちの音楽における特異性を守り抜いているのだともいえる。

つまり日本人がライブで手拍子を合わせられないのは、日本人の潜在的な国防意識の目覚めであるとは言えないだろうか。

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Posted by makotoazuma